木津裕治 (Yuji Kizu)
1月3日生まれの北海道旭川出身
・10歳の頃、親戚の家に置いてあった洋楽のレコードを聴いてポップスに目覚める。
・中1の時、学校帰りに寄った同級生の兄貴の部屋から、なぜかビートルズの「抱きしめたい」がフルボリュームで!その場で腰砕けになり、お決まりの因果な道へ。
・それまでは人前でろくに話せなかった男が、校内弁論大会では「頭髪の自由化」を訴え熱弁。生徒会長の応援演説やフォークソング同好会を作り初代部長。学園祭ではフォークと偽り、バンド爆音でハードロックを演奏、先生達にアンプのコードを引き抜かれる。
又、この頃からオリジナル曲(と呼べるものなのか?)を作り始める。
・高校時代には、応援団員として甲子園。しかし夜になると部屋の窓から逃亡、連日ディスコ通い。
・20歳の時にバンド仲間と札幌へ。ヤマハのポピュラーソングコンテスト初出場で自作曲「ダンスィングパーティー」で”グッドフィーリング賞”受賞。翌年にはファンの熱烈リクエストで地元テレビ出演、自作曲「熱風」を演奏。
・しかしその後、オリジナル曲中心のライブ活動よりも、安易に収入と歌う場所を確保できる営業バンド〜通称”箱バン”の世界へ、すすきのディスコ、ナイトクラブ、パブを駆け巡る。
※ちなみに、最多1日13回ステージも経験!
・その頃出演していた店のテレビCMに自作の「熱い想い」と本人達の演奏ステージが起用される。
・その後、バンドメンバーでライブパブをオープン、24時間テレビで札幌代表ステージ出演や、地元テレビに店内でのクイズコーナー等が放映された。
・しかし、バンドのマネージメントオーナーが突然の事故死!
メンバー達もバラバラになり、当時札幌に進出予定だった”ケントス”のオーディションを受け、ケントスバンドメンバーに加入。
・この頃、某大手事務所からメジャーソロデビューの話しが持ち上がったが、ファーストシングル制作途中で、はかなく消える。
・その年、全国ケントスバンドコンピレーションアルバムに参加、
全国発売(アナログレコード現在廃盤)される。
・3年ほど活動した後、事務所からの誘いを受け、東京へ。
六本木からスタート、赤坂、銀座、新宿、池袋、上野、錦糸町まで都内隅々、連日連夜のステージ廻り。
・テレビ朝日情報番組でクリスマスイベント絡みと年越しのステージ演奏がそれぞれ放映。その後、事務所も変わり、埼玉、千葉、遠く和歌山、浜松、福島、青森まで、としまえん、富士急ハイランド、とどめは屋上ビアガーデン。
・のどを痛めて入院後は、すっかり箱バン、ドサ廻りに疲れはて下北沢あたりにライブの出来る、カラオケハウスを開店。
アマチュアシンガー達のステージをサポートしてる内に、自分の中に忘れかけていたオリジナル曲でのライブ、制作活動に再び目覚める。
・不定期に、ライブ活動を行う中、店を閉店。
そして今回、70年代から80年代にかけて発表してきたオリジナル曲をセルフカバー。
幻のファーストシングルもボーナストラックに入れての、全10曲、初CD化。